次の1回は、いわゆる形容詞を中心とする形容動詞、副詞、連体詞などの和語の形容語、或いは修飾語のうち基本と思われる二拍語、三拍語などの短語をとりあげ、整理したものである。和語における形容語の全体像を把握し、同時に個々の語の意味するところを探る試みである。これは前にとりあげた動詞編に続くもので、次の名詞編をもって完結の予定である。
和語の形容語は、ほとんどが名詞と動詞の援用であり、本来的な形容語は少ないと見られるが、もちろんもとの一拍語に返ることができたとしても、その品詞を問うことは難しい。和語では、「ゐぬ犬」がいることが第一義で、それが「おほきい」か「ちひさい」か「しろい」が「くろい」かは第二義であるのであろう。ただ「つよい」にしろ「よわい」にしろ、本来的な形容語と見られるものは、それ以上遡ることができないものが多い。
形容語を整理すると言ったが、それは非常に難しく、ほんの便宜的、恣意的に並べて見たものに過ぎない。以下のリストは、また、和語について分からないことがいかに多いかということを示している。一例であるが、古語の「し」形容詞が現代語になって「い」語尾となる際にも、単に「し」が「い」と転じる場合と、「し」の後に「い」をとって「しい」となる場合があり、そうした解明も今後の課題である。
なお、次のリストには〔ラ入〕なる見慣れない用語がしばしば現れる。これは和語が一拍語から次々に長語化する際に長語化要素として無意味なラ行語「ら/り/る/れ/ろ」のいずれかが付加されたものであることを示している。これは形容語に限らず和語全体に及ぶ特徴的な現象であり、別にまとめて論じるつもりであるが、ここでは典型的な例として、形容語のリストの中からいくつかとり出しておく。
あかし-あかるし明
かし-からし辛、かし-かるし軽
くし-くらし暗、くし-くるし苦、くし-くろし黒
しし-しるし著、しし-しろし白
つし-つらし辛、とし-とろし
ぬし-ぬるし温、のし-のろし慢
ひし-ひろし広、ふし-ふるし古
まし-まるし丸、もし-もろし脆
ゆし-ゆるし緩、yeし-yeらし偉
よし-よらし寄、よし-よろし宜
わし-わるし悪、wuし-wuれし嬉
2018年9月18日火曜日
2018年7月9日月曜日
「自分」を言う渡り語「わ、wu、を」と「わたし、わたくし」
筆者は、和語辞典(増補版)において「自分、同じ」を意味するワ行一拍語の渡り語「わ、wu、を」指摘している。これらはおそらくごく早い時期に(w-&)相通語「わ→あ、wu→う、を→お」を生じ、以来それらが渾然一体として使われてきたと考えられる。これらは、それぞれが語尾としてタ行語、ナ行語、ラ行語をとり、全体として下記のようなきれいな体系を作っている。
「わ//あ」 「wu//う」 「を//お」
----------- ---------- ----------
わち/わて//あち/あて wuち//うち ***
わぬ//あな己/あながち自勝 wuぬ//うぬ己/うぬぼれ をな//おな/おなじ/おやじ同
をの//おの/おのも/おのれ己
われ/われわれ//あれ我 wuれ//うれ をれ//おれ俺
さて、ここで考えてみたいのが難語とされる「わたし、わたくし(私)」である。これは、上記を踏まえれば、「わた+し」「わた+くし」はあり得ず、明らかに「わ+たし、わ+たくし」と分解され、語末の「たし、たくし」の解釈如何となるであろう。
まず「たし」であるが、(ts)語に引っかかりそうなものはない。そこで気をまわして「たし」を「たち」の(t-s)相通語の可能性を検討すると「たち(達)」が浮かんでくる。これは増補版で指摘しているように「たち/だち-とち/どち」の(tt)縁語のひとつであり、「かみたち神、ともだち共、みたまたち御玉」などの「たち」である。ちなみに「とち/どち」については「うまひと(貴人)どち、いとこどち、おもふどち、をとこどち」などの用例がある。これを当てはめると「わたし」は「わたち」となり、それはまさしく「わ」の複数形、即ち「私達、私ども、われわれ」の意となる。これは、相手に対して直截的に私一個を打ち出すことを避け、「われわれ」とすることにより韜晦的に表現と影響するところを和らげた表現であると考えることができる。このような使い方は今日も行われているはずである。つまり「わたし」は、本来の「わたち」の相通形、後日形であると考える。
ここで複合語「わたしたち(私達)」が注目される。上記を踏まえると、この語の構成は「わ+たち+たち」となる。これは、おそらく「わたし」が本来「わたち」であることが忘れられた後に、「わたし」を複数化する目的で「たち」が付加されたものと考えられる。
では「わ+たくし」は何か。ここで「たし」と「たくし」を別語と見ることは難しく、「たくし」は「たし」の長語形と見る。おそらく上長や貴人を前にして、単独の「わ」を引っ込めて「わたち」としたものを、時代が経過して「わたち」の「わ」性をさらに薄める必要が生じ、そのため「たち」を引き延ばしたのではないかと考える。しかし今は「たし」が語中に「く」をとり込んだ形で「たくし」と長語化したことを説明することはできない。だが筆者は、今は説明できなくとも、いつか「たし→たくし」と類似の長語化例が見つかることによって全体として納得できるようになるであろうと期待している。「たくし」の「く」にこだわることはなく、似たような例であればよい。宿題である。
「わ//あ」 「wu//う」 「を//お」
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わち/わて//あち/あて wuち//うち ***
わぬ//あな己/あながち自勝 wuぬ//うぬ己/うぬぼれ をな//おな/おなじ/おやじ同
をの//おの/おのも/おのれ己
われ/われわれ//あれ我 wuれ//うれ をれ//おれ俺
さて、ここで考えてみたいのが難語とされる「わたし、わたくし(私)」である。これは、上記を踏まえれば、「わた+し」「わた+くし」はあり得ず、明らかに「わ+たし、わ+たくし」と分解され、語末の「たし、たくし」の解釈如何となるであろう。
まず「たし」であるが、(ts)語に引っかかりそうなものはない。そこで気をまわして「たし」を「たち」の(t-s)相通語の可能性を検討すると「たち(達)」が浮かんでくる。これは増補版で指摘しているように「たち/だち-とち/どち」の(tt)縁語のひとつであり、「かみたち神、ともだち共、みたまたち御玉」などの「たち」である。ちなみに「とち/どち」については「うまひと(貴人)どち、いとこどち、おもふどち、をとこどち」などの用例がある。これを当てはめると「わたし」は「わたち」となり、それはまさしく「わ」の複数形、即ち「私達、私ども、われわれ」の意となる。これは、相手に対して直截的に私一個を打ち出すことを避け、「われわれ」とすることにより韜晦的に表現と影響するところを和らげた表現であると考えることができる。このような使い方は今日も行われているはずである。つまり「わたし」は、本来の「わたち」の相通形、後日形であると考える。
ここで複合語「わたしたち(私達)」が注目される。上記を踏まえると、この語の構成は「わ+たち+たち」となる。これは、おそらく「わたし」が本来「わたち」であることが忘れられた後に、「わたし」を複数化する目的で「たち」が付加されたものと考えられる。
では「わ+たくし」は何か。ここで「たし」と「たくし」を別語と見ることは難しく、「たくし」は「たし」の長語形と見る。おそらく上長や貴人を前にして、単独の「わ」を引っ込めて「わたち」としたものを、時代が経過して「わたち」の「わ」性をさらに薄める必要が生じ、そのため「たち」を引き延ばしたのではないかと考える。しかし今は「たし」が語中に「く」をとり込んだ形で「たくし」と長語化したことを説明することはできない。だが筆者は、今は説明できなくとも、いつか「たし→たくし」と類似の長語化例が見つかることによって全体として納得できるようになるであろうと期待している。「たくし」の「く」にこだわることはなく、似たような例であればよい。宿題である。
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