2018年7月9日月曜日

「自分」を言う渡り語「わ、wu、を」と「わたし、わたくし」

 筆者は、和語辞典(増補版)において「自分、同じ」を意味するワ行一拍語の渡り語「わ、wu、を」指摘している。これらはおそらくごく早い時期に(w-&)相通語「わ→あ、wu→う、を→お」を生じ、以来それらが渾然一体として使われてきたと考えられる。これらは、それぞれが語尾としてタ行語、ナ行語、ラ行語をとり、全体として下記のようなきれいな体系を作っている。

「わ//あ」        「wu//う」        「を//お」
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わち/わて//あち/あて    wuち//うち        ***
わぬ//あな己/あながち自勝  wuぬ//うぬ己/うぬぼれ  をな//おな/おなじ/おやじ同
                          をの//おの/おのも/おのれ己
われ/われわれ//あれ我    wuれ//うれ        をれ//おれ俺

 さて、ここで考えてみたいのが難語とされる「わたし、わたくし(私)」である。これは、上記を踏まえれば、「わた+し」「わた+くし」はあり得ず、明らかに「わ+たし、わ+たくし」と分解され、語末の「たし、たくし」の解釈如何となるであろう。

 まず「たし」であるが、(ts)語に引っかかりそうなものはない。そこで気をまわして「たし」を「たち」の(t-s)相通語の可能性を検討すると「たち(達)」が浮かんでくる。これは増補版で指摘しているように「たち/だち-とち/どち」の(tt)縁語のひとつであり、「かみたち神、ともだち共、みたまたち御玉」などの「たち」である。ちなみに「とち/どち」については「うまひと(貴人)どち、いとこどち、おもふどち、をとこどち」などの用例がある。これを当てはめると「わたし」は「わたち」となり、それはまさしく「わ」の複数形、即ち「私達、私ども、われわれ」の意となる。これは、相手に対して直截的に私一個を打ち出すことを避け、「われわれ」とすることにより韜晦的に表現と影響するところを和らげた表現であると考えることができる。このような使い方は今日も行われているはずである。つまり「わたし」は、本来の「わたち」の相通形、後日形であると考える。

 ここで複合語「わたしたち(私達)」が注目される。上記を踏まえると、この語の構成は「わ+たち+たち」となる。これは、おそらく「わたし」が本来「わたち」であることが忘れられた後に、「わたし」を複数化する目的で「たち」が付加されたものと考えられる。

 では「わ+たくし」は何か。ここで「たし」と「たくし」を別語と見ることは難しく、「たくし」は「たし」の長語形と見る。おそらく上長や貴人を前にして、単独の「わ」を引っ込めて「わたち」としたものを、時代が経過して「わたち」の「わ」性をさらに薄める必要が生じ、そのため「たち」を引き延ばしたのではないかと考える。しかし今は「たし」が語中に「く」をとり込んだ形で「たくし」と長語化したことを説明することはできない。だが筆者は、今は説明できなくとも、いつか「たし→たくし」と類似の長語化例が見つかることによって全体として納得できるようになるであろうと期待している。「たくし」の「く」にこだわることはなく、似たような例であればよい。宿題である。

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