2018年7月29日日曜日

「丸い」ものを言うマ行縁語群

 和語では”丸いもの”は、マ行渡り語「ま/み/む/め/も」、及びその相通語の「ば/び/ぶ/べ/ぼ」、さらにそれらに接頭語や前接語、接尾語がついた複合語で表される。接頭語ではカ接語、タ接語が多い。出現時期はさまざまのはずで、いずれできるだけ順序づけたい。下記はそうした”丸いもの”一覧表の作成をこころみたものであるが、勿論取りこぼしや誤りが少なくなく、整理の仕方も定まらない幼稚なものである。これをもとに遠からず完成形に近づけたいものと思っている。

ま(丸)-まく(巻く)-まかす(巻かす)-まかせる「シ接:しまく(繞く)」
           -まかる(巻かる)-まかれる
    -まぐ(曲ぐ)-まがる(曲がる)
           -まげる(曲げる)
    -まず(混ず)-まざる(混ざる)
           -まぜる(混ぜる)
    -まふ(舞ふ)-まはす(回はす)-まはさる-まはされる「まひ舞/回」
           -まはる(回はる)
    -まる(丸る)-まるむ(丸るむ)-まるまる「まる丸」
                    -まるめる
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ま目
タ接:たま玉~ア接「あたま頭」~たましひ魂?、くるま車、たまご卵、まめ豆、まり碗

タ接:たば束~たばぬ(束ぬ)-たばねる〔玉にする〕
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み(廻)-みる(廻る)「いそみ磯廻、うらみ浦廻、くにみ国廻、くまみ隈廻、さとみ里廻、やまみ山廻;うちみる打廻、こぎみる漕廻、ゆきみる行廻」
タ接:たみ(た+み/び廻)~「たび旅」
び(廻)-「いそび磯廻、かはび川廻、やまび山廻、wuねび畝傍、をかび岡廻、かむなび神備」
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む(群)-むる(群る)-むれる(群れる〔「丸くなる」が原意か〕)
つむ/つぶ粒、おつむ頭、むら村、むれ群、
タ接:たむ(た+む廻)「かきたむ掻廻、こぎたむ漕廻」、イ接:いたむ
ぶ( )-かぶ(株、頭、蕪、鏑)、こぶ瘤/たんこぶ、つぶ粒/つぶす潰/つぶる、でぶ、ぶくぶく、あぶく泡、こぶし拳、ぶた豚、しりぶた/しりむた臀、ぶつぶつ、まかぶら/まなかぶら、くぶら/こぶら腓、たぶら/たむら臀、つぶら円、ぶり鰤、かぶろ/かむろ禿、たぶろ/たむろ党*屯
タ接:たぶ/たぼ、たぶさ髻、みみたぶ耳朶、
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め(巡)-めぐ(巡ぐ)-めぐる(巡ぐる)-めぐらす-めぐらせる
                    -めぐらふ
め目
べ(巡)「かはべ川辺、はまべ浜辺、やまべ山辺、をかべ岡辺」〔「べ」の原意は「巡/廻」か〕
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も(廻)-もづ(**)-もどく(擬どく)
           -もどす(戻どす)
           -もどる(戻どる)

タ接:たぼ髱、つぼ壺

2018年7月25日水曜日

「かみ神」はカ接語「か+み(霊)」か

 「私家版和語辞典」において筆者は「かみ神」を(km)縁語のひとつとして論じた。しかし大事の神が二拍語であることには違和感もあり、どこか落ち着かない。それと言うのも「かみ神」を「か+み」と分解して、「み」を「おかみ(龗)/くらおかみ(暗龗)、やまつみ(山神)、わたつみ(海神)」などの「み(霊?)」とする見方があるからである。日国「わたつみ」の語源説欄には「ミはクシビ(霊異)のビに通ず〔大言海〕」という鋭い指摘もある。「かみ」の前項の「か」は不詳であるが、単なる接頭語としても差し支えない。

 ところがこれには有力な否定論があって、日国「おかみ」の項の語誌欄にも『「おかみ」のミは甲類で、「やまつみ」「わたつみ」のミと同じであり、この「み」は、霊力あるもの、神霊の意か。「神」のミが乙類であるのとは異なる。』と明快である。上代特殊仮名遣いを重視する向きにはこれで決まりであろう。神は「か+み(霊)」ではない。だが、この現象の理解に決着がつくまでは結論は留保としたい。

 和語には神性や霊性を言う一拍語にもうひとつ「ち」があり、日国には次の記述がある。『神や自然の霊の意で、神秘的な力を表わす。「みづち(水霊)」「のつち(野霊)」「いかづち(雷)」「をろち(大蛇)」「やふねくくぢのみこと(屋船久久遅命)」など。「わたつみ」「やまつみ」「ほほでみ」の「み」と同じ。』(例語は旧仮名に戻してある。)ここでは「ち」と「み」の意味を無造作に「同じ」としているが、「同じ」であるわけはないので、ここは何とか見分けたいところである。方法としてはそれぞれの渡り語を見つけることが第一歩であろうが、今のところ不明である。宿題である。

2018年7月20日金曜日

「ほ」-「おほし(多)」「おほきし(大)」

 いわゆる形容詞「おほし多」「おほきし大」は、共に一拍語「ほ」に接頭語「お」のついたオ接語であることを「増補版」で指摘した。そして「ほ」には「火、穂、帆、秀」などを当てている。「お(接頭語)+ほ(火、穂、帆、秀)」である。ところが「火、穂、帆」はどれも勢いよく高く立ちあがるもので、そこに共通性が感じられる。その共通性が「ひ、ほ(秀)」という抽象語であるであろう。これに従うと、「おほし」「おほきし」の本来の意味は、数量的なものではなく、「勢いがある、気高い、神々しい」あたりとしか考えられない。「おほし多」「おほきし大」とはやや距離がある。

 ところで、もうひとつ「多い」ことを言う古語に「あは」がある。「あはに/さはに」(「さはに」は&-s相通語)の形で用いられる。この「あは」が「おほ」と(&-h)縁語と考えることができるのである。つまり、「あ(接頭語)+は(多)」である。ということは、「多い、大きい」ということを原意とする渡り語「は、ほ」があって、「は」は接頭語「あ」をとって「あは」となり、「ほ」は接頭語「お」をとって「おほ」となった、と考えるほかない。これはこれで理屈にかなうが、今のところ渡り語「は、ほ」の存在を突きとめることができない。これではまったく説得力に欠ける。

 いずれとも決め難く、宿題とするほかない。

 ちなみに、上記の「ほ(秀)」は、「かほ(顔)」の「ほ」ではないかと考えられるのである。「か(接頭語)+ほ(秀)」である。また「ほほ(頬)」は「ほほ(秀々)」となる。こう見ると「かほ(顔)」を無理なく理解できるであろう。ひとつの解釈である。

2018年7月16日月曜日

「まだまだ」-「不十分」な(md)縁語群

 諸辞書の教えるところによれば、「まづし貧」の本来の意味は「不十分である、足りない」ということのようである。例えば生計を営む上では、まだまだ必要十分な物資や資金を得ていないことを言っていると言う。また、完成にはほど遠い、未完成である、ということも言っている。「まだ」十分でない、「まだし」、イ接語「いまだし」である。
 上記をもとに、(md)縁語と思われるものを列挙してみれば次のようになるであろう。

まだ/まだまだ、まだき、まだし、いまだ/いまだし(未だ)
まぢ貧、まぢし/まづし/まどし(貧し)、まづ(先づ)、まで(迄)
みぢかし(短し)〔必要な長さに達していない〕
むだ(無駄)
めづらし(珍し)
もどかし、もどく/もどき、もどす/もどる(戻す)

 いずれも”まだ十分でない”という雰囲気である。現代語「まづし」はただ”貧窮”の意であるが、これはかなり新しい使い方と思われる。「まぢ貧」は、海彦、山彦の段に「まぢち(貧鈎)」という成句で出てくるが、おそらくそれだけで今日に伝わっている語であろう。語釈は難しい。

 「みぢかし短」が浮かぶが、これは仮名使い上サ行語「みじかし」が正しいとされている。ところが「みぢかし」であれば「帯に短したすきに長し」で、帯にするにはまだ十分でないという点でぴったり合うのである。ここでは「みぢかし」をとる。
 いささか無理筋のようであるが、「むだ(無駄)」がここに入るように思われる。
 「めづらし」「もどかし」は、考えようによっては縁語と見ることもできそうである。「めづらし」は、当たり前、ふつう、ありきたりになるにはまだ十分でない、まだ十分でないので「もどかしい」である。
 「もだす」と「もどす/もどる」は、もとはひとつか。「もだす」は、まだ十分でないのでそうなるまで待つ、放置する、「もどす」はまだ十分でないのでそうなるまでおし返す、待つ、放置する。

2018年7月15日日曜日

「こ」「ご」

(和語を構成する五十音のひとつひとつについて、和人がそれに託した意味や情景を探ろうとするもの。今回は「こ」について関連する資料をまとめる。全五十回をもって完結する。これによって、最終的に、すべての一拍語、前接語、模写語のリスト作りを意図している。随時加筆修正の予定である。)

-----一拍語:
こ(小/子/こまし)、こ(かひこ蚕/なまこ海鼠)、こ(これ此、ここ此処)、こ(処)、こ(濃)、こ(籠)、こ(き/く/け/こ木)、こ(き/く/こ黄;きいろき色/くがね/こがね黄金)
-----コ接語:
こく、こしらふ、こする、こそぐ、こぞる、こぢる、こたふ/こらふ、こづく、こねる、このむ、こはし/こひし/こほし、こばむ、こぼす/こぼる、こゑ、
-----模写語
こせこせ、こそこそ/ごそごそ、こちこち、こつこつ/ごつごつ、こてこて/ごtごて、ことこと/ごとごと、こほこほ/ごほごほ、こりこり/ごりごり、ころころ/ごろごろ、こわ/こを/こをろ、こんこん/ごんごん
-----二拍名詞:
こけ苔 こし腰 こし輿 こぞ昨年 こち鯒 こち東風 こて鏝 こと言 こと事 こと異 こと琴 こな粉 こぶ瘤 こま駒 こま狛 こま独楽 こめ米 こも薦 こり香 ころ躯 こゑ声
-----一拍・二拍動詞
こ-こく(扱く)〔稲扱き〕
こ-こく(転く)-こかす(転かす)
        -こける(転ける)〔ずっこける〕
こ-こく(耽く)-こくる(耽くる)〔叱りこくる、黙りこくる、塗りこくる、張りこくる〕
        -こける(耽ける)〔眠りこける、笑いこける〕
こ-こく(痩く)-こける〔痩せこける、頬がこける;こけざる痩猿〕
こ-こく(放く)〔屁こき〕
こ-こぐ(焦ぐ)-こがす(焦がす)
        -こげる(焦げる)
こ-こぐ(漕ぐ)-こがす(漕がす)
こ-こぐ(凍ぐ)-こぎゆ(凍ぎゆ)
こ-こす(越す)
こ-こす(漉す)
こ-こつ(言つ)-こたふ(答たふ)-こたへる
こ-こづ(抉づ)〔こづ、すづ、ねづ、もづ、よづ〕
こ-こぬ(捏ぬ)-こなす(熟なす)
        -こねる(捏ねる)
こ-こふ(乞ふ)
 -こぶ(媚ぶ)-こびる(媚びる)
こ-こむ(籠む)=こごむ〔てごめ手籠〕
        -こまる(籠まる)〔困る〕
        -こめる(籠める)
        -こもる(籠もる)
こ-こゆ(凍ゆ)=こごゆ-こごyeる
こ-こゆ(越ゆ)-こyeる
こ-こゆ(臥ゆ)-こやす〔こyiふす臥伏〕
        -こyeる
こ-こゆ(肥ゆ)-こやす(肥やす)
        -こyeる(肥yeる)
こ-こる(伐る)
こ-こる(懲る)-こらす-こらしむ-こらしめる
        -こりる
        -ころふ
こ-こる(凝る)=ここる
こ-こwu(臥wu)〔こゐふす○臥〕
こ-こwu(蹴wu)

相通語

 和語には本来の「yiなに(稲荷)」がいつか「yiなり(お稲荷さん)」となるような面白い語内の子音交替現象があり、これを相通と呼んでいる。「私家版 和語辞典」では遭遇する度に指摘したが、それらはもちろんほんの一部に過ぎない。相通語を整理して理解したいというのが本稿の目的である。

 相通語の解明には全ての語例をとりまとめることが先決である。そうすることによって初めて見えなかったものが見えるようにもなり、問題点も整理されるであろう。ただ、以下は相通語の悉皆列挙にはほど遠い。拙速ではあるが、また多くの誤りを含んでいるが、取り急ぎ大まかな一覧表をつくることによって、これを踏み台として完成に迫りたい。「wuぢ(氏)」と「すぢ(筋)」の相通関係が明らかとなり、「wuぢ氏」の意味が「ちすぢ血筋」の「すぢ筋」と判明するなど、語釈の面でも貴重な手掛かりとなる。

 問題点としては、以下に見るような相通現象が、1)そこにどのような規則性があるのか、2)時代的にどのように位置づけられるのか、3)語の意味にどのような影響を与えているのか、4)単なる和人の言い癖、口癖か、5)もう少し広く和語をもたらした、或いは作りだした昔の大陸や南洋の人たちの言い癖か、6)或いは言語一般に見られる現象か、などがある。
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(k-&)
かばふ-あばふ(掩護)
(k-h)
くなと/くなど岐-ふなと(ふなとの神)、くくむ-ふくむ含、け笥-へ瓮、
かむ噛-はむ食、こがみ-ほがみ小腹、ふくむ-ふふむ含、くすぶる-ふすぶる燻、
(s-&)
さどふ-あとふ〔誘う、勧める〕、さは淡-あは(「さはす-あはす」〔柿の〕渋を抜く)、
さは-あは多(〔雲が〕さは立つ)、さまねし多-あまねし(「まねし」のサ接語か)、
さめ-あめ雨(こさめ小雨、ひさめ氷雨)、さら更*新-あら新、さゐ-あゐ藍(あぢさゐ紫陽花)、
さを-あを青(まさを真青)、さかる-あかる離、さるく-あるく歩、しかる叱-いかる怒、
しは-いは岩、しぬ(し+ぬ寝)/しなす(し+なす寝)-いぬ(い+ぬ寝)〔このシ接語
「しぬ寝」が本来形で、時代を経てイ接語「いぬ寝」に移行したと考えられる。〕
(t-s)
たね種-さね核 wuき-つき-すき坏*杯 つき襁〔むつき襁褓〕-すき襷〔たすき手襷〕、
ほと女陰-ほそ/ほぞ臍、かち/かた堅-かし樫、としろ十代-そしろ十代〔そしろだ十代田〕、
くたす/くちる朽-くさす/くさる腐、たけぶ猛-さけぶ叫、けつらふ-けすらふ、
つがふ/つがる継*次-すがふ/すがる縋、つぼむ-すぼむ、ふたぐ(蓋たぐ)-ふさぐ(塞さぐ)、またし全-まさし正、
(t-n)
たぶ食-なむ嘗/舐、たゐ田居-なゐ地 いただき-いなだき頂、つた蔦-つな綱、
たぶる誑-なぶる嬲、たむ(訛む)/だむ-なむ(訛む)-なまる(訛まる)、
わなく(経なく)〔首をくくる〕-わたく(経たく)
(t-s)
ち(風:こち東風)-し(風:あらし嵐、つむじ旋風)、けつらふ-けすらふ(化粧)、
ちぢく/ちぢみ-しじく/しじみ(縮)蜆、つづ星(縮)-すず(鈴)、とこ(床)-そこ(底)
(t-r)
こたふ/こたへる-こらふ/こらへる(堪ふ)
(d-n)
くだ管-くな(くなたぶれ)、しだ時/すで/さだ-しな(行きしな、帰りしな)/すなはち即、どく-のく退、どろ-のろ泥、へなつ(隔なつ)-へだつ隔、
(d-z)
きだむ-きざむ(刻)、きだはし-きざはし(階)、とだす-とざす(閉)、
(n-&)
なぜ(何故)-あぜ、ぬるし-うるし(漆)、ぬる塗-うる(潤る)-うるふ(潤るふ)/うるむ(潤るむ)、ぬし(主)-うし(大人)
(n-z)
まに(ふとまに太占)-まじ(まじなひ蠱*呪)
(m-&)
むしろ後(む身+しろ尻)-うしろ(後)、むつ(鞭つ)/ぶつ(打つ)-うつ打、
(m-n)
みな-にな(蜷)、みの-にの(蓑)、みほ-にほ(鳰)、みら-にら(韮)、
かむはた-かにはた(蟹幡)、しめは-しねは(標葉)、ひめもす-ひねもす、
むかご-ぬかご(零余子)
(m-b)
あむ-あぶ(虻)、おもほす-おぼほす(思)、けむり-けぶり(煙)、
さむらひ-さぶらひ(侍)、しまらく-しばらく(暫)、すまる-すばる(昴*統)、
すめらき-すべらき(皇)、たはむる-たはぶる(戯)、たみ(タ廻)-たび(旅)、
ねむる-ねぶる(眠)、へみ-へび(蛇)、まもる-まぼる(守)、
ゑみし-ゑびす(夷*胡)
(n-r)
しひな-しひだ-しひら粃〔実のならない籾〕、yiなに稲荷-yiなり稲荷、
をたに小谷-をたり小谷
(y-s)
や矢*箭-さ、ye兄-せ、yiぬ去*往-しぬ死、yiね/よね稲- しね〔くましね奠稲*糈米〕、
(n-y)
おなじ同-おやじ同
(w-&)
わ(吾)-あ、わし(悪)-あし、わな-わだ(罠)-あな(穴)(n-d,w-&)、
わめく-さめく-あめく(喚)、
(w-s)
wuぢ(氏)-すぢ(筋)、wuつ(棄*捨)-すつ、wuひぢ(wu海+ひぢ坭)
-すひぢ(海坭)、wuめく-すめく(呻)、を-そ(麻)、をびく-そびく(誘)
(w-s-&)
わく(分く)-さく(裂く)-あく(開く)
(w-t-s)
wuき-つき-すき(坏*杯)
(w-y)
wuつる-ゆつる(移る)、をどむ-よどむ(淀む)

2018年7月13日金曜日

「しなふ(撓ふ)」「しんねり」「しの(篠)」「すんなり」-(sn)縁語群

しな-しなふ(撓なふ)〔しなひ/しなひたけ竹刀、模写:しなしな〕
  -しなぶ(萎なぶ)-しなびる
  -しなゆ(萎なゆ)
  -しなる(撓なる)
  -しなwu(撓なwu)
しね(しねしね-しんねり、しんねりむっつり)
しの(しの/しのたけ篠竹)
すな(すなすな-すんなり)

 「私家版」の記述を整理して、上記の語を(sn)子音コンビによる縁語群と見たい。古く冠辞考や古事記伝で指摘されているという三拍動詞「しなふ撓」と細い小ぶりの竹である「しの(篠竹)」との同語関係には異論ない。「しの篠」は釣竿として使われ、釣竿は「しなふ撓」ことが生命である。両者は切っても切れぬ関係にあると言える。これらと一見して縁語と分かる「しなしな-しんなり」「しねしね-しんねり」「すなすな-すんなり」とはやや遠い感じがするかも知れないが、どれも相手の力に合わせてこちらの力を抜く、脱力状態になるという点で全体でひとつと考えられる。

2018年7月12日木曜日

和語と五十音図

 和語と五十音図の関係はと言えば、現在知られているすべての和語(語彙)は、すべて五十音図の中の文字で表記される。逆に言えば五十音図を越えて和語はない。このことは、何を意味するか。初めに五十音図があって、和人はその中にある音(拍)のみを使って和語を作っていったということは考えられない。反対に和語を整理した結果、五十音図という枠組みが得られたということであろう。
 だが和語の長い歴史を通じて、最初からこのような五十音図という枠組みがあったとは考えにくい。事実、和語は、古代(上代)から時代の経過とともに多くの漢語をとり込み、それにつれて拗音拍、撥音、促音、長音拍が入り込み、それにつれて五十音図も膨れ上がっていった。ということは、五十音図の前段階として、おそらく縮小された形の図があったはずである。その時の和語は、その図に収まる範囲の数と語形のものであったはずである。その時代を経て、今見る五十音図に規定される和語の時代になったわけで、今われわれはそれを目の前に並べて見ていることになる。これはごく限られた一時代のことばであったであろう。このことを忘れないようにしたい。
 五十音図の前段階としては、例えば「三十音図」のようなものが考えられる。これには思惑があって、例えば五十音図のすべてのエ段語をイ段に、オ段語をウ段に畳み込んで、当時の母音は「あ、い、う」の三つであったとすれば「三十音図」が得られるのである。これを実行に移すには一人ではやや難しいが、そうすることによって特に語釈の分野でさまざまな新しい見解が得られる見込みがある。また謎多き上代特殊仮名遣いに何らかの理解が得られるのではないかと考えられる。

「(歯を)くひしばる」

 複合語「くひしばる」は、通常「食い縛る」などと書かれて日常語である。だが、どこか変な感じがする。これは、「くひ+しばる」と考えられるが、それぞれがどんな語で、全体で何を言っているのか。現在ではほとんど「歯を食いしばってこらえる」という使い方で、泣きたいところを泣くまいとこらえる、綱引きで相手に引きづられそうになるのを踏ん張って耐える、などと使われる。歴史的にもほとんど変わりなく、日国によれば「つねは中門にたたずみ、歯をくひしばり、いかってぞおはしける」(平家物語)、「覚えずむせぶなきごゑをよそに立てじと袖をかみ、くひしばりたるつつみなき」(浄瑠璃18c)などとあり、どれもよく理解できる。

 後項の三拍動詞「(しぶ-)しばる」は、要は”狭くする”である。紐でもって人を木に”縛りつける”のはもっと後の発展である。この動詞図は大きくなるので「和語辞典」で見ていただきたい。そうとすれば「くひしばる」は「”くひ”せまくする」ということになり、問題は前項の二拍動詞「くふ」にあるようである。いずれ古い語と思われる。もちろん「食ふ」ではないが、後におそらく「食ふ」になった。この「くふ」の意味するところは、下記の動詞図から絞り出すことになるであろう。全部縁語である。

か-かく(掻く)
 -かむ(感む)-かまく(感まく)-かまける
        -かます(咬ます)-かませる
        -かまふ(構まふ)-かまはす
                 -かまはる-かまはれる
                 -かまへる-かまへらる-かまへられる
    (咬む)-かまる(咬まる)-かまれる
く-くふ(口ふ)-くはす(食はす)-くはせる
        -くはふ(咥はふ)-くはへる〔すくふ(巣構ふ)〕
        -くはる(食はる)-くはれる
 -くぶ(配ぶ)-くばす(配ばす)
        -くばる(配ばる)-くばらる-くばられる
 -くむ(組む)-くます(組ます)-くませる-くませらる-くませられる
        -くまる(組まる)-くまれる
        -くめる(組める)

 図の中ほどにある「くふ(口ふ)」がそれである。「くひしばる」を縁語の「かむ」から考えると、親猫が子猫の首筋を噛んで落とさないように運んでいる図などが思い浮かぶ。現在の「かまける」「くはへる」である。口を手に置きかえると、「だきしめる」となるものである。結局「くひしばる」とは、本来は、”しっかりくふ”-”しっかり心を致す”ということになるであろうか。

2018年7月11日水曜日

「(仮名・ローマ字)五十音図」

あ (&a) い (&i) う (&u) え (&e)  お (&o)
か (ka)  き (ki)  く (ku)  け (ke)  こ (ko)
さ (sa)  し (si)  す (su)   せ (se)  そ (so)
た (ta)  ち (ti)   つ (tu)   て (te)   と (to)
な (na) に (ni)  ぬ (nu)  ね (ne)   の (no)
は (ha) ひ (hi)  ふ (hu)  へ (he)   ほ (ho)
ま (ma) み (mi) む (mu) め (me) も (mo)
や (ya) yi (yi)  ゆ (yu)   ye (ye)   よ (yo)
ら (ra) り (ri)  る (ru)    れ (re)    ろ (ro)
わ (wa) ゐ (wi) wu (wu) ゑ (we) を (wo)

が (ga) ぎ (gi) ぐ (gu) げ (ge) ご (go)
ざ (za) じ (zi) ず (zu) ぜ (ze) ぞ (zo)
だ (da) ぢ (di) づ (du) で (de) ど (do)
ば (ba) び (bi) ぶ (bu) べ (be)    ぼ (bo)

ぱ (pa)    ぴ (pi)   ぷ (pu)    ぺ (pe)    ぽ (po)
-------------------------------------------
きゃ (Ka) きゅ (Ku) きぇ (Ke)   きょ (Ko)
しゃ (Sa) しゅ (Su) しぇ (Se)  しょ (So)
ちゃ (Ta) ちゅ (Tu) ちぇ (Te) ちょ (To)
にゃ (Na) にゅ (Nu) -- - にょ (No)
ひゃ (Ha) ひゅ (Hu) ひぇ (He) ひょ (Ho)
みゃ (Ma) みゅ (Mu) --  -     みょ (Mo)
りゃ (Ra) りゅ (Ru) -- - りょ (Ro)

ぎゃ (Ga) ぎゅ (Gu) ぎぇ(Ge) ぎょ (Go)
じゃ (Za) じゅ (Zu)  じぇ (Ze)     じょ (Zo)
ぢゃ (Da) ぢゅ (Du) ぢぇ (Ze)     ぢょ (Do)
びゃ (Ba) びゅ (Bu) びぇ(Be) びょ (Bo)
ぴゃ (Pa)    ぴゅ (Pu)     -- -  ぴょ (Po)

撥音 (nn)  促音 (qq) 長音 (ll)
--------------------------------------------------
1)古代語、現代語を問わず、和語を構成する全ての拍を仮名とローマ字2個で表すことを目的としている。ローマ字は、基本的にいわゆる訓令式ローマ字化法によっている。訓令式は、日本語の特徴に即して合理的であるからである。この五十音図にもとづいた和語の正しい表記なくして和語の正しい理解はない。

2)全ての古代語は、上記中間の点線より上の清音拍50拍、濁音拍20拍の合計70拍で表記可能である。(パ行拍については別に論じる。)

3)時代が下がって多くの拗音拍が日本語に入り込んできた。これらの拗音は、上記のように仮名二文字による表記が歴史的に行われている。ローマ字では、小文字と大文字を使い分け、大文字をもって当該小文字が表わす子音の拗音を表記するものとする。
4)撥音、促音、長音も日本語には新しく、これらはそれぞれ (nn)、(qq)、(ll) で表記する。

5)ア行音の「あ、い、う、え、お」は、ローマ字ではこれを「&a、&i、&u、&e、&o」のように、母音文字の前に無音の音(子音)を表わす「&(アンド)」記号をつけて二文字で表記する。画面や印刷面の文字列をきれいに揃えるためである。

6)ヤ行の(yi)(ye)とワ行の(wu)の三拍は、古語では他の拍と区別して独立して普通に使われている。だが、これを表記するための現代人にすんなり受け入れられる平仮名、片仮名がないので「私家版 和語辞典」ではローマ字のまま表記した。ただしこれでは異様であるので、例えば(yi)には「射」、(ye)には「兄」、(wu)には「于」のような見かけの簡単な漢字を使用することが考えられる。

土偶や埴輪を”割る”理由、「わく(分く)」と「わる(割る)」

 古代の遺跡が発掘されると、特にそれが墓や墓域と見られるものの場合、遺骸のほかにさまざまな副葬品が出土する。とりわけ有力者の墓からは多数の土器や鏡などが副葬されているが、多くの場合それらはことごとく割られている。これは埋葬後に壊れたのではなく、明らかにあらかじめ壊された上で遺骸のそばに置かれているという。縄文時代の土偶も弥生時代の埴輪も通常は破壊された形で出土する。
 このことについてはさまざまな解釈や説明が行われているが、もっとも多く見えるのは死者の”よみがえりを封じる”ためということである。人にとって死は究極の忌みごとであり、故人のよみがえりによって祟りが起こったり、道連れにされることを恐れるためという。だが、これは残された近親者の感情とは明らかに矛盾する。近親者にとっては故人には帰って来てもらいたいのである。たとえ一瞬でいい、もう一度あの笑顔を見たい、その声を聴きたいというのが本音であるはずだ。よみがえりを封じるという考えは受け入れ難い。
 ところでわが国における葬式では、葬儀が終って出棺の際、故人が日常使っていた食器、特に飯茶碗を門口の敷石の上に投げつけて割る習慣がある。これは仏教とは無関係の日本古来の風習である。このことと古い時代の土器や銅鏡の破壊とは深いところで結びついているのではないか。そのことは和語に反映されていると見る。つまり「わく(分く)-別れる」ということと「わる(割る)」ということは、もう一代さかのぼると一拍語「わ」に帰する同語である。つまり、埋葬に際して故人にとって最も身近で大切なものであった、或いは権威の象徴であった土偶や埴輪や鏡を割るということは、とりもなおさず別れを告げることにほかならなかった。故人の”茶碗を割る”ことも同じく”さようなら”を言うことであった、と考える。

2018年7月10日火曜日

「yi/ゆ(尿)」と「ゆ(湯)」

 和人が「ゆ(湯)」を手に入れたのは、今から1万6千年前の土器の発明以降であり、それ以前は地から湧く天然の湯、すなわち温泉以外に湯はなかった。しかも温泉を知る人はごく限られた数の人達であったはずである。とは言え、遺構があるかどうか知らないが、石を焼き、それを水溜りに放り込んで風呂としていたかも知れない。貝塚があるところでは、貝の乾燥剥き身を作っていたとされているが、その製造工程では湯が必要のはずで、やはり石を焼いて作っていたであろう。だが湯の受け皿として、そこでどのようなものを用いていたのか見当がつかない。
 今日も普通に使われるその「ゆ湯」であるが、本来の意味は「尿」であったかも知れない。

 大昔、尿は「yi/ゆ」と呼ばれていた。ヤ行渡り語である。もちろん「つ(水)」との対比で生成したとは考えられない。何らかのきっかけで尿は一拍の渡り語で「yi/ゆ」と呼ばれ、放尿は「yiをまる/ゆをまる;yiまり/yiばり/ゆまり/ゆばり」と言われていた。二拍動詞「まる」は、大小便を放出する意で、その名詞形は「まり/ばり」である。「まり/ばり」で尿そのものを言う地方があるようである。今日の「おまる」もこれである。

 さて、土器を用いて湯を沸かすことができるようになって、和人は、それに新しい音(語)を当てることなく、既存のほんのり暖かい「ゆ(尿)」を流用し、暖かい水を「ゆ(湯)」と呼ぶようになったのではないか、という物語である。

 尿、小便を言う語には別に「しっこ、しし、しと」がある。蚤(のみ)虱(しらみ)馬のしとする枕もと。前項の一拍語「し」にその意味があるか。この「し」と「yi/ゆ」との関連は不明である。

2018年7月9日月曜日

「自分」を言う渡り語「わ、wu、を」と「わたし、わたくし」

 筆者は、和語辞典(増補版)において「自分、同じ」を意味するワ行一拍語の渡り語「わ、wu、を」指摘している。これらはおそらくごく早い時期に(w-&)相通語「わ→あ、wu→う、を→お」を生じ、以来それらが渾然一体として使われてきたと考えられる。これらは、それぞれが語尾としてタ行語、ナ行語、ラ行語をとり、全体として下記のようなきれいな体系を作っている。

「わ//あ」        「wu//う」        「を//お」
-----------  ----------  ----------
わち/わて//あち/あて    wuち//うち        ***
わぬ//あな己/あながち自勝  wuぬ//うぬ己/うぬぼれ  をな//おな/おなじ/おやじ同
                          をの//おの/おのも/おのれ己
われ/われわれ//あれ我    wuれ//うれ        をれ//おれ俺

 さて、ここで考えてみたいのが難語とされる「わたし、わたくし(私)」である。これは、上記を踏まえれば、「わた+し」「わた+くし」はあり得ず、明らかに「わ+たし、わ+たくし」と分解され、語末の「たし、たくし」の解釈如何となるであろう。

 まず「たし」であるが、(ts)語に引っかかりそうなものはない。そこで気をまわして「たし」を「たち」の(t-s)相通語の可能性を検討すると「たち(達)」が浮かんでくる。これは増補版で指摘しているように「たち/だち-とち/どち」の(tt)縁語のひとつであり、「かみたち神、ともだち共、みたまたち御玉」などの「たち」である。ちなみに「とち/どち」については「うまひと(貴人)どち、いとこどち、おもふどち、をとこどち」などの用例がある。これを当てはめると「わたし」は「わたち」となり、それはまさしく「わ」の複数形、即ち「私達、私ども、われわれ」の意となる。これは、相手に対して直截的に私一個を打ち出すことを避け、「われわれ」とすることにより韜晦的に表現と影響するところを和らげた表現であると考えることができる。このような使い方は今日も行われているはずである。つまり「わたし」は、本来の「わたち」の相通形、後日形であると考える。

 ここで複合語「わたしたち(私達)」が注目される。上記を踏まえると、この語の構成は「わ+たち+たち」となる。これは、おそらく「わたし」が本来「わたち」であることが忘れられた後に、「わたし」を複数化する目的で「たち」が付加されたものと考えられる。

 では「わ+たくし」は何か。ここで「たし」と「たくし」を別語と見ることは難しく、「たくし」は「たし」の長語形と見る。おそらく上長や貴人を前にして、単独の「わ」を引っ込めて「わたち」としたものを、時代が経過して「わたち」の「わ」性をさらに薄める必要が生じ、そのため「たち」を引き延ばしたのではないかと考える。しかし今は「たし」が語中に「く」をとり込んだ形で「たくし」と長語化したことを説明することはできない。だが筆者は、今は説明できなくとも、いつか「たし→たくし」と類似の長語化例が見つかることによって全体として納得できるようになるであろうと期待している。「たくし」の「く」にこだわることはなく、似たような例であればよい。宿題である。

2018年7月2日月曜日

音や声を模写するハ行渡り語「は、ひ、ふ、へ、ほ」

 数多いイ接動詞の中に三拍動詞「いばゆ」がある。これは「いばゆ-いばゆる/いばyeる」と長語化するが、これが意味するところは、和名類聚抄や源氏物語などの少なからぬ用例から「馬が鳴く、いななく」と分かっている。では、どうしてこれがイ接動詞「い+ばゆ/はゆ」であるとすることができるのか。これについては昔の人も知恵を絞って、日国の「いばえる」の語源説欄に「イはウマの鳴声の擬声。バユはホユ(吼)の転〔名言通・大言海〕」という非常に興味深い説が見える。日国はこれにとり合っていないが、ここで前半の「イ」は、単なる接頭語であり上記の説は誤りであるものの、後半の「ばゆ/はゆ」を「ほゆ(吼)」と結びつけているのはまさに(hy)縁語説の先取りであり、見事と言うほかない。「いばゆ」は二拍動詞「はゆ」のイ接形(い+はゆ)であった。

 さて「はゆ」と「ほゆ」が共に馬のような動物が鳴き声を立てる意であろうと見当はついたが、今日の日常語でもある「ほゆ-ほyeる」はいいとして、「はゆ(吼)」の方は単独の用例がなく、いささか心細い。そこで(hy)縁語の「はゆ」「ほゆ」は、前項の一拍語「は/ほ」に意味があって、後項の「ゆ」は単なる動詞語尾、即ち「は/ほ(吼)+ゆ(語尾)」であると見て、他のハ行語に何か支援材料がないか探って見ることとする。

 そうするとたちまち「(琴を)ひく」「(笛を)ふく」に思い至る。琴は埴輪でも出土する古い楽器であり、それを「ひく(弾)」とは音を立てる意に違いない。「つまびく」の成句もある。また「ふく」は笛をピーと鳴らす意である。ここで「ふye(笛)」であるが、これは(笛を鳴らすために)強く息を吹く意の二拍動詞「ふゆ(吹ゆ)」の名詞形である蓋然性が非常に高い。後に本稿で多く見ることになる他の類似の例からそう考えられる。これで音を表わすハ行語「ひく」「ふく」「ふye」が得られた。そのほか「ほらをふく」「へをひる」もある。「ほら」は「ほ〔音〕+ら(無意味の語尾)」で、法螺貝はもともと音を意味する一拍語「ほ」であり、後に転じてナンセンスを言うただの「ほ」という音になったと考えられる。つまり、和語ではホラは「言う」ものでも「語る」ものでもなく「吹く」ものだったのである。「へ(屁)」も音の、おそらく往時の模写語である。後半の「ひる」は、物を捨てる意の「ほる(放る)」の(hr)縁語とも考えられるが、ここでは「ひく(弾く)」と同列の「ひる(弾る)」と見る。つまり音を立てる意の「ひ〔音〕-ひく/ひる」の動詞列があったと見る方が自然であるであろう。

 ここまでくると、究極の音を表わすハ行語である和人の笑い声に思い至る。即ち「ははは、あはは、あっはっは、わっはっは;ひひひ、いひひ;ふふふ、うふふ;へへへ、えへへ;ほほほ、おほほ」等々である。これらは、実に、孤立した単純な模写語、或いは単なる音語ではなく、上に見たような多くの語と音や声を表わすハ行縁語群を構成する実意のある語であったのである。

 馬が嘶く意の「いばゆ」から思いがけない展開になったが、「はゆ」の用例は見つからなくとも、「ほゆ」と似た意味をもって存在したであろうことは疑いをいれない。ここに挙げた語は、まだ漏れているであろういくつもの語も合わせて、音を模写する「ハ行縁語群」(渡り語)と見ることが出来るであろう。「はゆ、ほゆ」の(hy)縁語は、大きな縁語群の一部だったのである。